灰色の雲
灰色の雲
Have a Fruitful Day!

心が曇ってしまう日も

-前編-

緑の鳥

汐見夏衛

赤い鳥

「はあ……」
朝、目が覚めた瞬間、
唇からため息がこぼれ落ちた。
まだ寝ていたいのに、
まだ動きたくないのに、
時間はそれを許してくれない。
「……行かなきゃ」
淡々と時を刻む時計の針の音に
急かされるように、
ふとんの中からのろのろと抜け出した。

時計

支度をして、朝食を食べて、
歯磨きをして髪を軽くととのえ、
行ってきますと家を出る。
見上げた空は、
どんよりとした灰色の曇り空だった。
わたしの気持ちと同じだ。
「ふう……」
また、ため息をついてしまった。
学校に行くのが、心から憂鬱だった。

4月の初め、桜舞う春。
出会いの季節などと
好意的に言われることが多い春だけれど、
わたしはこの季節が、
一年でいちばん嫌いだ。
新しい顔ばかりの教室、
慣れない先生、毎年恒例の自己紹介、
最難関の友達づくり--
春という季節には、
わたしの苦手なものが全て詰まっている。

新しいクラスで
うまくやっていけるだろうか、
友達ができるだろうかと、
わたしは毎年どきどきはらはらしながら
この日を迎える。
わたしは、子どものころから、
極度の人見知りだった。
知らない人と会うときは
いつもお母さんの後ろに隠れ、
お母さんの足にしがみついて、
相手とはひと言も話さず、
絶対に視線も合わさなかったという。

母親と娘

それを親は小さいころの
笑い話のように話すけれど、
わたしの本質は、高校生になっても
まだ変わっていない。
わたしはいまだに、
慣れない人と話すときは
緊張のあまり言葉が出なくなるし、
目も合わせられない。
そんなわたしを見て、
せっかく話しかけてくれた相手も
微妙な顔をして去っていく。

女子学生

年度始めに毎年行われる自己紹介は、
本当に苦手だ。
知らない顔ばかりの中で、
全員からの注目を浴びると、
いつも頭が真っ白になって、
言葉を見失ってしまう。
そして、クラスみんなの前で
そんな
情けない姿を見せてしまったあとに、
自分から「友達になろうよ」などと
誰かに声をかけるなんて、
断られるに決まっているし、
恥ずかしすぎて無理だった。

校舎

だから、入学や進級の季節は
わたしにとって、希望に満ちた
出会いの季節なんかではなく、
いちばん憂鬱な季節なのだ。
4月の友達づくりに失敗したら、
その年のクラスでの居場所はなくなり、
一年間ずっと苦しむことになる。
それを思うと、新しい日々への期待に
胸を膨らませるよりも、
今後への不安と緊張と恐怖で
胸がいっぱいになってしまう。

そして今日は、新学年の始業式。
運命の審判が下る日だ。
だからどうしても、学校へ向かう足どりが
重くなってしまう。
去年同じクラスで唯一の
仲良しだった子とは、
進級時の文理選択で
コースが分かれてしまったので、
今年は同じクラスになることはない。

机

ということは、
一から友達づくりをしないといけない
ということだ。
自分から話しかけるなんて
絶対に無理だから、
誰かが話しかけてくれたら少しでも
いい印象をもってもらえるように、
友達になってもいいと
思ってもらえるように、
感じのいい対応をしないと。
うまくできるだろうか。

女子学生たち

そもそも誰からも
話しかけられなかったらどうしよう。
自己紹介で大失敗をしたら
みんなに引かれて
声をかけてもらえないかもしれない。
そうなったら、どうすればいい?
そんなことを考えていたら、
心臓がばくばくとうるさく跳ね始めた。
まだ学校に着いてもいないのに、
すでに緊張でどうにかなりそうだった。
毎年毎年同じようなことを
考えて不安になって、
何歳になっても
成長しない自分が嫌になる。

「はあ……」
本日何度目かも分からない
ため息をこぼし、ふと目を上げる。
その瞬間、何かが視界を横切った。
「……?」
何かは分からなかったけれど、
思わず目で追う。
そして、見つけた。
曇り空を背景に、すうすうと
流れるように宙を飛ぶ、二羽の鳥。
「ツバメ……?」
形は、わたしの知っている
ツバメに似ていた。
でも、わたしの知るツバメとは色が違う。
緑色の鳥と、赤い鳥だ。
目を射貫くような鮮やかな色彩。

赤い鳥と緑の鳥

--ツバメはね、幸運の鳥なんだよ。
ふと、そんな言葉が思い浮かんだ。
まだ幼かったころに、
誰かから聞いた言葉だ。
ツバメは幸せを運ぶ鳥。
誰に教えてもらったんだっけ。
思い出せない。
赤と緑のツバメが、
空を遊ぶようにくるくると舞い、
再びすうっと飛んでいく。
わたしの足は無意識のうちに
学校とは真反対のほうへ向き、
不思議なツバメを追いかけていた。

謎の人物

気がついたら、いつの間にか、
知らない場所に来ていた。
小高い丘の上。
見渡すかぎり一面、小さな白い花が
ぽつぽつと咲く広々とした野原。
その上に広がる綺麗に晴れた
真っ青な空に、
オレンジ色の太陽が輝き、
明るい光がさんさんと降り注いでいる。

花

なんて気持ちのいい場所だろう。
そして、なんだかとてもとても
いい香りがする。
どこからくる香りだろうかと
視線を巡らせてみると、
ところどころに
木が生えているのが分かった。
どの木にもカラフルな
フルーツが実っている。
ああ、そうか、これ、
フルーツの香りだ。
甘く熟した美味しい果物の、
みずみずしい香り。

カラフルなフルーツが実っている木

でも、それだけじゃない。
なにか、生まれたばかりの
柔らかい葉っぱのような香り--
ああ、お茶だ。摘みたての茶葉の、
なんともいえない爽やかな香り。
丘の向こうに、鮮やかな緑の茶畑が
広がっているのが見えた。
わたしは緑の地面に腰を下ろし、
顔を仰向けて、ゆっくりと目を閉じる。

思いきり深呼吸をすると、
フルーツとお茶の新鮮な香りが、
胸をいっぱいに満たした。
ふいに、太陽の光が遮られたように
あたりが暗くなったのを、
閉じた瞼ごしに感じた。
目を開けると、空を覆うような
大きなレモンの飛行船が、
静かに頭上を飛んでいた。
「うわあ、すごい、大きい……。
あっ、さっきのツバメ!」

レモンの飛行船

黄色い飛行船の周りを、
赤と緑のツバメが楽しそうに
くるくる舞っている。
思わず立ち上がり、
ツバメと一緒に飛行船を追いかけて、
丘を越えた。
丘を下りた先に広がる景色は、
まるで遊園地だった。

ふわふわ漂う桃の気球、
ぐるぐる回るレモンの観覧車、
まあるい形のりんごの屋台。
わたしは芝生にごろりと寝転んだ。
自然と瞼が落ちてくる。
心地いい。ずっとここにいたい。
戻りたくない。
学校なんて行きたくない。
そう思った。

桃の気球とレモンの観覧車

すると、みるみるうちに
空が曇りはじめ、
あたり一面が暗くなり、
ざあざあと雨が降り出した。
このままではびしょ濡れになってしまう。
雨宿りをするために、
近くにあったりんごの屋台に駆け込んだ。

雲と雨

「いらっしゃい」
優しい微笑みを浮かべて
迎えてくれた人物の顔を見て、
わたしは驚きの声を上げた。
「おばあちゃん……!?」
その人は、今はもう会えない、
わたしのおばあちゃんだった。

りんごの屋台

「よく来たねえ」
嬉しそうにそう言った
おばあちゃんの笑顔を見た瞬間、
耳に甦った言葉。
--ツバメはね、幸運の鳥なんだよ。
ああ、そうだ、おばあちゃんだ。
教えてくれたのは、おばあちゃんだった。
わたしはやっと思い出した。

-前編おわり-